雑記 2002年4月

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一年間計4回「瓔」に句集の紹介をさせていただくことになりました。
「瓔」は、2001年2月創刊の、女性12名による同人誌です。「瓔」(ヨウ)とは、玉をつないだ首飾のこと。イラストレーターの西村玲子さんによる表紙をはじめとして、女性らしいセンスにあふれた冊子です。
 さて、第一回目は、前川彰子氏の「出帆」ですが彼女が、このきらびやかな句集を私達に残して、早々と旅立ってしまったことを御存知の方も多いでしょう。
 彼女の句は、どれも明快で、濁りがありません。
私は、句集のうち3句のイメージをひろげられるだけひろげて、パラレルワールドにも似た次元の鑑賞をしてみようと思いました。
 俳句は、17文字の最小の詩型ですが、無限のイメージの喚起力をもっています。
 鑑賞者もそれに応えねばなりません。
 残る3回も、このポリシーをもってやってゆくつもりです。
 「瓔」の御好意で全4回サイトに掲載させていただきます。どうぞゆっくり御覧下さいますように。

 

 


 

とらえ離さぬ時間

ー前川彰子句集「出帆」よりー

                   加藤いろは

 

 つねにその人、人人にとって「今」という時間・今咲き盛り、その人をとらえ離さぬ時間−その今とい現・うつつの時間・現瞬間。そして「現瞬間の詩」を私は俳句と考える。

         「絶対本質の俳句論」  阿部完市

 好むと好まざるにかかわらず、俳句に性別は関与していると私は思う。女性的なものの見方、男性的なものの見方は、俳句の表現者として決してマイナスではないだろう。
 それはたぶんDNAが記憶しているそれぞれの”原風景”があるのかもしれない。では、表現者としての前川彰子を「とらえ離さぬ時間」とはいかなるものなのだろうか。

             ☆     ☆    ☆

 ミロの絵は、その独特の造形図象ゆえに、音楽にたとえられたりもするが、ことに「夜の中の女と鳥」(1969〜74)などは、エンヤの”オンリー・タイム”が聴こえてきそうだ。絵の中の三日月へ向って飛び翔とうとするのは、鳥に化生した女なのか、それとも今まさに、地上に降り立ちて、鳥から女に生れ変わろうとするところなのか。
 私には、永遠に循環してゆく”命のメッセージ”に思えるのだ。それはミロの宇宙観ともいえる。彰子の句の”鳥”は、再生する為に、宇宙のどこかを今も巡り続けているのかもしれない。

    ミロの絵の鳥堕ちゆくや星月夜  彰子

 ケルトの文化は、どこか日本と似ている。八百万(やおよろず)の神々は、まるで、アイルランドの妖精達のようだ。妖精は、森や丘に住んでいて人間にいたずらをしたりする。
 太陽が頭上にきて影が消えるほんの一瞬、姿を現わすそうだ。妖精は又、全てのものに宿る自然霊ともいわれている。
 そしてそれは、少し前まで日本でも信じられていたことなのだ。
 自然を畏怖することは即ち、自然と交感することにほかならない。彰子に、この一句を齎(もたら)したものは精霊のこゑだったのか。


     炎昼や電柱は羽化しつつあり   彰子

                 ☆     ☆     ☆

 DNA解析によると、全ての女性の源は、二十万年前のアフリカのイブに始まるらしい。”女として生れ、恋をして、子供を授かり、育てて、老いて死ぬ”というDNAの連鎖が私には永遠のようでもあり、一瞬のようにも思える。
 そしてその全地球分の一の存在である、たった一人の自分。
それはまさに、彰子でもあり、私でもあるのだ。
 「俳句は現瞬間の詩だ」と阿部完市はいう。

 俳句という表現手段を得たとき、私達は、はじめてかけがえのない自分に向い合う。そして、これからも女であり続けることを思う。
 彰子を「とらえ離さない時間」とは、自分につながるたくさんのイブ達の存在を意識することに始まっていたにちがいない。

      月光に溶岩原そだつ音すなり       彰子