雑記 2002年6月

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2002年4月 とらえ離さぬ時間
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花と知るべし

ー飯倉八重子句集「草眸」よりー

                   加藤いろは

 

 いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲くころあればめづらしきなり。能も住するところなきを、まづ花と知るべし

         「風姿花伝」  世阿弥

 「能」と「俳句」は、よく似ている。
 ぎりぎりまで絞った表現形式をもつ「能」。すれすれまで言葉を削ぎ落とした短詩型の「俳句」。どちらも観客なり、読者なりが、間を埋めるようにして”その世界”に関わっていかなければ、共感できないという点である。
 ”その世界”とは、勿論、作者の世界であり、演者の世界でもあるのだが、自分(観客・読者)も参加しているので、「双方向型」の「仮想現実」といえなくもない。
 では、飯倉八重子が、もっとも輝いていた世界とは・・・・。

             ☆     ☆    ☆

    霞む中少年墓に隠れけり    八重子

 ただのかくれんぼ遊びかもしれないのに「少年墓に隠れけり」というフレーズには、得たいの知れぬ不安がつきまとう。子が母を探し、母が子を探すという、古典的悲劇の最たる能「隅田川」が、或は、八重子の胸中を過ぎったのか。劇中では、梅若丸の霊は、母の手をすり抜けて塚へ入ってしまう。亡くした子供は、永遠に子供のままだ。そして、喪失感を抱いたまま、母ひとり老いてゆくのか。

     さらば夏夜飛ぶ鳥に手を上げて 八重子

                ☆     ☆     ☆

 ギリシア神話のみならず、人と人でないものとの交流は日本にも、いろいろなパターンで伝えられている。そのうち羽衣伝説のいくつかは、天人が鶴や鷺、白鳥の姿を借りて出現する。八重子の眼がとらえた「夜飛ぶ鳥」とは、実は、此岸から彼岸を渡る、魂の象徴のようなものではなかったのだろうか。不思議な昂揚感にあふれた句である。

    夢みるによし冬しだれ木の中は 八重子

 能舞台という空間は、「中有」(ちゅうう)という宗教的概念を思わせる。「中有」。それは、この世とあの世の間の時空。次に生まれるまで魂の居る処。案外「冬しだれ木の中」にもあるのかもしれない。夢をみているのは、八重子なのか、八重子以前のものなのか。誰かが触れるまで眠っているのだろう。

              ☆    ☆    ☆

八重子の句の本質は、抒情であったのだが、言葉を厳しく選ぶことによって、八重子スタイルという個性を作り出したのだ。そういう意味でも、この句集『草眸』は、彼女の世界が、もっとも輝いていたといえるだろう。
 世阿弥は言う。「能も住するところなきを、まず花と知るべし」つまり、停滞することなく、常に変わってゆくことこそ花である、と。それは、表現という命題を抱えた者全てに、通じるのではないだろうか。
 飯倉八重子も、それは免れることはできない。